言葉には魔力が宿っていると考えている、たたりんです。
先日、いじめによる電車飛び込み自殺に見せかけた殺人がニュースなどで頻繁に流れていました。
これは、かなり悪質な事件だと思っています。
しかし、報道するときに、
『いじめ』という言葉を使うのはいかがなものかと、私は考えてしまいます。
複数の言葉を、短く伝えるために『いじめ』という言葉にまとめているのでしょうが、
そのために、悪質性が薄くなっているようにも感じます。
『いじめ』という言葉の後に、暴行・脅迫と言った言葉をつけるなら、『いじめ』と言う言葉を使う必要はないでしょう。
個人的に『いじめ』は行き過ぎた子どものじゃれ合いという風に捉えられていると思っています。
言葉は優しく見えるが、
いじめという言葉の実態はただの犯罪行為
であることに変わりはありません。
と言う人もいるかも知れませんが、私は、
いじめ=犯罪
と言う認識でいます。
ということで、今回は
いじめについて私が思っていること
を紹介します。
過去にも似たような記事は書いていますが、改めて紹介します。
過去記事は以下から
実態把握が曖昧になる
『いじめ』と言う言葉を使うと、実態把握が曖昧になると考えています。
『いじめ』の実態は
- 暴行
- 窃盗
- 脅迫
- 人権侵害
- 誹謗中傷
- 名誉毀損
など、様々な犯罪を示しています。
それを『いじめ』と言う言葉でまとめてしまうと、実態は何だったのか?と曖昧になってしまいます。
問題の本質的な解決をするためには、実態を把握することが重要です。
実態を把握するためにも、適切な言葉を使うことは大切です。
『いじめ』行為全般に言えるのは、
他者を害する行為
であることに変わりありません。
他者を害しているのに、曖昧なまま、本質的な解決が出来なとなると、再発する可能性は高いです。
実態を適切に把握するためにも、曖昧にする『いじめ』と言う言葉を使うのは控えましょう。
罪の重さが分かりにくくなる
『いじめ』と言う言葉は、
罪の重さを分かりにくくしています。
序文でも書きましたが、
『いじめ』は行き過ぎた子どものじゃれ合いという風に捉えられていることがあります。
子どもであろうと、
犯罪を犯した人は犯罪者です
罪を犯したならば、それを償わなければなりません。
『いじめ』という言葉は、自分が罪を犯したという自覚を持たせない事が多いです。
罪の自覚を持たせるためには、罪名をきちんと告げる必要があるでしょう。
一例
具体的な事件の内容は書きませんが、少し前にいじめを苦に自殺した生徒がいました。
担任教師も把握していたみたいでしたが、解決のための行動をせず、見て見ぬ振りをしていました。
子どものじゃれ合いだと思っていたのでしょうね(関わりたくないだけの可能性が高そうでしたが)
さらに、学校側は
と言ったような発言をして、亡くなった被害者生徒よりも、加害者生徒を守った教育者(犯罪者擁護者)もいます。
本当に未来ある生徒を守るのであれば、檻に入れて、自らの行いを反省させて更生させることが大事ではないでしょうか?
『いじめ』という言葉で実態を曖昧にさせて、犯罪を犯したという意識を持てない生徒は、今後も同じような事を繰り返すでしょう。
きちんと学校が裁かないのであれば、
事件のあった年度に関係するエリアに所属していた生徒を採用しない
といった、採用者も出てくるかも知れません。
少なくとも、私が採用担当者であれば、犯罪を犯して裁かれていない生徒を採用したいとは思いませんね。
誰だか分からないのであれば、可能性を潰すために、無関係な生徒であっても・・・。
さて、本当に未来のある生徒を守るためにすることは何だったのでしょうかね。
子どもであろうと、罪は罪です。
償えないようであれば、社会として不要な存在であると、私は考えています。
終わりに
以上、『いじめ』について思っていることでした。
『いじめ』という言葉で実態を曖昧に誤魔化しているという事象は少なくないと思っています。
意味が広義にわたるため、実際は何だったのか?という風になってしまいます。
個人的には使うべきでは無いと思っています。
誰であろうと、罪は罪です。
それを曖昧にしてしまうと、反省することが出来ません。
『いじめ』に対しては、お前がやってるのは犯罪行為だ
ということを忘れさせてはいけません。
行き過ぎたじゃれ合いは、相手に深い傷を負わせてしまう事があるということを忘れないようにしましょう。
罪は罪、それは子どもであろうと変わらない事を忘れないようにしましょう。
以上、βуё (o’ω’o)ノシ βуё