平等ガーと叫ぶ人ほど差別主義者だと感じている、たたりんです。
最近、平等という言葉は幻想だと感じるようになりました。
人間、チャンスは平等と言われますが、
- 生まれ
- 環境
- 時代背景
と言った部分でかなり差が出来ていると思います。
資本主義社会である以上、差が出来てしまうのは仕方のないことです。
ただ、ソレを
と叫び続けている人がいて、その人達こそ問題だと思っています。
- お金を稼げている人に対して、ズルをしている
- 目立った人を叩く
など、リスクを取った人を攻撃したりする風景も見えます。
そして、こうした行為をする人ほど、平等であるべきだとか、差別ガーとか言っている印象があります。
自分たちは何もせず、ただ待っているだけで手に入ると勘違いしているのでしょうかねぇ・・・。
リスクを取って行動したからこそ、リターンができ、そのリターンを自分の子供の教育に使っていることは、何ら不平等でもありません。
その逆もまた然りで、
リスクを取って行動したが、リターンが生まれず、子どもに教育援助ができなかった
なんてこともザラにあります。
何もせずにインフレリスクに飲み込まれる人だっています。
チャンスは平等に与えられているが、行動するかしないか、リターンを受け取れるかどうか
で、大きく変わってくることです。
そして、どれを選ぶかは人それぞれです。
(リターンを取れるかどうかは、運の要素もありますが)
で、リスクを取らない人間の多くが、
みたいに喚き散らかすんですよね。
で、成功している人とか、お金のある人からもっと税金を取るべきだとか言うんですよね・・・。
大企業の内部留保に税金を掛けるとか言い出してる人とかね。
口を開けて待っているだけの雛鳥がチャンスを取れるわけはありません!
今成功している人の中には、
元手はなかったけど、うまくチャンスを掴むことができて成功した
なんて人もいます。
ようは、努力をしてチャンスを掴めた人たちのことですね。
どこぞのCMなんかは、生まれで差別があるから支援しよう
なんてイメージを謳っていますが、最低限の教育以外の支援は不要だと私は考えています。
過度な支援は、行動を阻害します。
- 文字の読み書きができる
- 四則演算ができる
ということができるようになれば、あとは本人の気概次第だと思っています。
この2つが働くうえでの土台となることが多いと思っています。
まぁ、このあたりは日本に生まれた時点で恵まれてるから言えることかもしれませんが。
読み書きと計算とコミュニケーションが取れれば、どうとでもなることも多いと思っています。
あとは実際に働きながら覚えていく、お金を貯めたら専門技術を学びに行くということでステップアップも狙えそうですし(机上の空論でありますが)
個人的に、日本はかなり平等にチャンスが与えられていると思います。
さらにインターネットの発達により、更にチャンスは掴めるようになったでしょう。
ただ、そのチャンスを掴めていない人も多いです。
今はネットサービスのいろいろなところで収益化もできるようになりました。
それを後押しする企業も少なくありません。
でも、行動する人は少数です。
早いうちから行動する人ほど、チャンスを掴みやすく、誰かが成功するのを後追いしても、大勢に飲み込まれてしまうことも、よくあります。
ただ、チャンスという観点から考えると平等だと考えています。
新しい技術などが生まれたら、まずは試してみよう、それを動画化してみようといったアクションを素早く行うことで、大きな収益を生み出せている人はいますから。
つらつらと書いてきましたが、
差別について思っていることを2つ紹介します。
書籍から引用となりますが、差別について考えるのに役立つと思います。
差別のない社会はユートピアかディストピアか

一つは、バカと無知より、
差別のない社会はユートピアかディストピアは分からない
というものです。
個人的に
差別のない社会は、ディストピアになる
と考えています。
差別が無いというのは、全員が平等だということになります。
つまりは、突出した個を持つ人が排斥されるということでもあります。
全員が均等な社会なんてのは、何の面白みもありません。
新たな技術が生まれることもないでしょう。
与えられた仕事を機械のようにこなす生活となってしまえば、
もはや人間などいらないでしょう。
このあたりは人によって考え方が違うでしょうが、私はこのように考えています。
生物には差も別もある

一つは、逃げ上手の若君14巻(第120話)より
生物には差も別もある
というものです。
これは生物の真理をついている言葉だと思っています。
作中では、東夷呼ばわりしまくっている顕家になぜ欧州の武士がついてくるのかを聞いている場面ですが、納得できる描写となっています。
史実でも、差別意識はあったが、綺麗事や上辺だけでない関係ができたからこそ、という注釈があるので、うまく描写しているところだと思っています。
本題にもどりまして。
生物には、当たり前だが違いがあります。
人間でも、男女で違いがあります。でも、これって当たり前ですよね?
太古の昔から続く役割の違いでもありますから。
差も別もあるからこそ、他人は信用できるかどうかを、判断しているのだと思います。
無条件で誰でも信用する人なんてのはいません。
仕事でも自分とは違うからこそ、任せる任されるという関係を築けているのでしょう。
信頼関係を築く上での何かがあるからこそ、差も別もあっても良い関係が築けるのでしょう。
終わりに

平等について思っていることを書こうとしていたが、
- チャンス
- 差別
についてばかり書いていました。
伝えたいことが迷子になっているところがありますが、これが私ですw
改善していかないとなぁ・・・。
さて、
- 排外主義ガー
- 女性差別ガー
と、声高に叫んでいる人がある界隈にいますが、
この発言を叫んでいる人たちは、改善のための何かをしているのでしょうか?
ネット上で差別ガーと叫んだり、平等ガーとか叫んでいる人たちって、
自分たちは何もしないけど、声を上げて政治に何とかしてもらおうとか考えているのだと思っています。
声を上げれば誰かが動いてくれるだろうという浅ましい人間なら放置でいいですが、
厄介なのは、地位や権力等がある人たちです。
こうした人達は、表に出てこず、バレないように動いて、気がついたら取り返しのつかないところまで進めているということをしていますから。
個人的には、平等自体は素晴らしいことだと思っています。
しかし、現実問題完全に平等な社会なんてのはできないしょう。
だって、自分が気に食わないからって声を上げて賛同者を集める人がいるのですから。
差も別もあるからこそ、どこかで妥協をする必要があります。
そして、その妥協点すら潰そうとするのが、叫んでいる活動家(モンスタークレーマー)たちです。
自分たちは正義だと思い込んでいる、活動家を黙らせない限り、本当の意味での差別はなくならないでしょう。
完全に差別を消し去ることは無理でも、チャンスは平等な社会は作れると思っています。
まぁ、今がそれに近しい状態であると思ってはいますが。
ダラダラと書いてしまうので終わる!
以上、βуё (o’ω’o)ノシ βуё