みんなが同じことが出来るようになる世界ほどクソな世界は無いと思っている、たたりんです。
先日『才能の民主化』というワードがX(旧ツイッター)でトレンド入りしていました。
何なのだろうかと、軽く覗いてみたのですが、
生成AIは才能の民主化
ということで、盛り上がっていたようです。
私は生成AIには賛成派ですが、(道具の一つとしか見ていませんので)
コレは無いわ
と思いました。
っというよりも、今回盛り上がったことを踏まえると、
民主化というよりは、共産化
の方が近い気がしています。
私の理想としている自由は、
- みんな違ってみんな良い
ということが根底にあります。
みんなが同じものしか作らない、同じことしかしないというのであれば、
そこには淡々としたつまらない世界が広がっていくでしょう。
生成AIを使えば、才能がなくても素晴らしい作品を作れるというのは幻想です。
コレに関しては断言できます。
生成AIを使おうが使わないが、良いものを作るのであれば、努力は必要です。
大量のトライ・アンド・エラーを繰り返した結果、
多くの人に認められるような作品が作れているのです。
生成AIも最初期は、
- 人間の指が6本ある
- 体の構造がおかしい
といったように、イラストとしてどこかおかしいところが色々とありました。
色々と試していくうちに、
〇〇すれば、XXができる
といった事が分かってきます。
こうしたこともトライ・アンド・エラーを積み重ねた努力の成果と言えるでしょう。
何もせずにその恩恵だけ受けたところで、誰かのマネレベルで終わってしまうでしょう。
面白い例としては、生成AIが登場した最初期に、
- 盆栽になった男性器
- 256色に光る男性器
といったインパクトにあふれる作品が登場しました。
ある意味ではコレも才能でしょう。
一番最初に出した人は、
どうしてこうなった( ^ω^ )♪
くらいの気持ちだったかもしれません。そしてそれを面白いと思った人が次々に真似をしました。
どうやったら似たような作品を作ることが出来るのかということは、広まりました。
が、完全に同じ作品を作ることは、おそらく不可能です。
ッと言うよりも意味がありません。価値もありません。
細部には必ず差異はでますし、出したところで、盗んでいると評価されるだけです。
同じテーマで作った作品と比べると、天と地の差があります。
自分の作りたいものというのは自分の中にしかありません!
それを表現する手段(道具)の一つが生成AIです。
自分の作りたいものが自分の中にしか無いということを忘れてしまった人が、
良い作品を作れるわけがありません。
生成AIは才能の民主化なんて言って、生成AIを使うことを正当化させる必要なんてことはない。
正当化させようとしている時点で、やましいことがあると思っているのです。
作りたいものがあるのであれば、外野は気にせず作るのが良いです。
第一、反生成AIの人は、
- 生成AI=悪
という図式が成り立ってしまっているのです。
根っこの価値観を変えさせるのは途方も無い時間が必要です。
そして、その人達を説得しようとするメリットはおそらく無いです。
ありもしない悪い噂を広めたら名誉毀損になり、人生が積む可能性があることをまともな人なら理解していますから。
もちろん、生成AIは使い方次第ではNGなところはありますので、注意は必要ですが。
才能について

「才能が欲しい」と思ったことがある人は多いと思います。
才能に関する考えについては、私は昔から変わっていません。
ソレに関しては過去記事を参考にしてください。

ただ、出来る人の言うことと出来ていない人の言っていることでは、
大きな違いがあると最近は思うようになりました。
出来ない人の言う才能が欲しい
出来ない人がいう「才能が欲しい」というのは、ぶっちゃけただの言い訳です。
才能が無いから出来ない
そんな事言う前にやってみろよ
才能が無いから良いものが出来ない。だからできない
最初から良いものが出来るわけないんだからやってみろよ
というように、才能を言い訳に何も始めない人はいるでしょう。
(それに対する私の解を添えて)
出来ない人は才能を言い訳にして何もやりません。
才能があれば、何の努力も必要ないというのは物語の中だけです。
現実では、才能があると思われる人達は途方もない努力を重ねています。
才能という言葉は最も簡単な言い訳でもあります。
ソレに関しては過去記事を参考にしてください

時間も労力も使わずに、周囲から持て囃されたいという気持ちは分かります。
ですが、努力をしていないと、どこかで頭打ちになってしまいます。
出来ない人は才能を言い訳して、何もしようとしません。
出来る人の言う才能がほしい
すでに出来ている人が言う「才能が欲しい」は、
より高みに登るために使っていることが多いでしょう。
・・・というよりも、才能が欲しいなんて言わずにすでに行動に起こしているでしょう。
なんか気がついたら、やっていた
というレベルにまでなっているかもしれません。
最後の一押しとして欲しいものだと私は思っています。
終わりに

『才能の民主化』というワードがトレンドにあがっていたので、思っていることをつらつらと書いてみました。
いやぁ、こうして書いてみると、
私は才能という言葉が嫌い
なのでしょうね。
- 最も簡単に使える言い訳の一つであり、
- 努力した成果をたった一言で終わらせてしまう
そういう風に捉えてしまっているのでしょう。
私は才能の民主化なんてものは存在し得ないとも考えています。
どれだけ生成AIが発達しても、AIを使わずに出来る人の価値が減るわけではありません。
表現したいものは、同じテーマでも人によって異なってきます。
万人に受け入れられる作品もありません。
「多くの人が平等な権利を持てる」が民主化だから、
才能の民主化は、「多くの人が平等な才能を持てる」と思ってしまっているな。
・・・まじで民主化じゃなくて共産化だなぁ。
私の調査不足感もあるかもしれないがな。
生成AIを使っても、表現したいことを表現出来るかは別問題。
同じ表現を出せるかどうかも別問題。
才能なんてものは、今までの経験や努力の積み重ねであり、
誰一人として同一なものは存在しないのです。
以上、βуё (o’ω’o)ノシ βуё