いじめをしている人は精神に異常を来たしていると思う、たたりんです。
科学技術が発展しても、いじめ問題が無くなることはありません。
そもそも、いじめという言葉事態にも問題はある気がしています。
いじめは、他人に犯罪をしているのと同じです。
- 暴力
- 窃盗
- 恐喝
- 人権侵害
などを一括りに『いじめ』としていて、問題の本質を有耶無耶にしてしまっています。
子供がやったことだから大目に見て
という甘い考えが、被害者の声をかき消しているのかもしれません。
被害者も同じ子供だと言うのに。
中にはいじめ被害者が、いじめを苦に自殺してしまったのに
- 自殺したのは自分のせいじゃない
などと言う人もいます。
学生時代なんかは
- 教師に報告する(チクる)=恥ずかしいこと、仲間はずれにされること
という扱いになっていることはよくあるでしょう。
しかし、これらは自分たちのコミュニティを守るために、
いじめ被害者を見捨てるという行為と同じなのです。
いじめをしてきた人間が大人になると、
今度はパワハラなどのハラスメントを行うようになるのかもしれません。
自分の罪としっかりと向き合うこともせず大人になると、精神がどこか歪んでしまうことでしょう。
飲み会などで、イジメ自慢をする人は、
自分が犯罪をしたのだという罪の意識がなく、
犯罪自慢をしているのと同義です。
それを大人がしているのですから、精神が歪んでいると言わざるを得ません。
ケラケラと笑っている人も同類です。
こうした事を書いていると、
いじめ加害者にもちゃんとした精神のケアが必要なのかな
と思ってきます。
罪を犯したことをゲラゲラと笑い話にしているのは、
精神が歪んでいるのと変わりないと思っています。
もちろん、被害者に誠意ある謝罪と被った被害の補填は絶対に必要ですが。
いじめ問題の本質と向き合う事をせず、
いじめ被害者に寄り添った風なことをすれば解決できる
という悪習が、いつまで経ってもいじめ問題が無くならない原因なのかもしれません。
いじめ問題で自殺者が出たのに、
亡くなった被害者より生きている加害者の方が大切
なんて言う教育関係者もいるのですから。
私は、罪を償うつもりのない加害者を守る価値はないと思っています。
だからこそ、罪をしっかりと償わせなければなりません。
書きたいことは大半書いてしまいましたが、
今回は『いじめ』について思っていることを紹介します。
どれだけ世の中が便利になっても『いじめ』問題はなくなりません。
その原因の一端にいじめ問題に真摯に向き合ってきていないからではないかとも思っています。
加害者の精神ケアの検討
アメリカで導入されているらしいと聞いたことがあるのですが、
加害者の精神ケアをしてみるのも1つに手段だと思っています。
いじめ問題の加害者は相手の権利を侵害しています。
相手も同じ国に住んでいる人間である以上、同様の権利を持っています。
その事に気がついていないことは、精神にどこか異常を来しているのかもしれません。
被害者を増やさないように一度隔離して精神ケアをしたほうがいいのかもしれません。
問題に何も向き合わず、形だけの謝罪をさせたところで、また同じことを繰り返します。
形だけの謝罪は
どうして自分がこいつに謝らなければいけないんだ
と内心では思っていることでしょう。
自分が悪いことをしたという自覚を持たせなければ何の意味もなさないでしょう。
そして、今度は自分が怒られないように、被害者に
教師にチクったらもっとひどい目に合わせる
といった脅しもするでしょう。
そして、周囲も教師に報告したら次は自分が被害者側になると思ってしまいます。
いじめ加害者に精神異常があるとして、隔離して精神ケアをしてみるというのも1つの手段だと思います。
実は家庭に問題があり、その腹いせに他人を攻撃している可能性だってあります。
教師の負担を減らす
学校という場に限ってしまいますが、
教師の負担を減らす
というのもいじめ問題に対して有効かもしれません。
私はネットで聞いた話レベルのことしか知りませんが、
今の世の中、教師の負担が大きすぎるという思います。
そして、問題が起こると寄って集って殴ることも。
負担が大きい状態だと、余計な問題に取り組みたくなります。
ただでさえ忙しいのに、更に忙しくなることを好んでする人はあまりいないでしょう。
だから、
生徒の自主制を促す
という名の見て見ぬふりをしてしまうのではないのかと思います。
そして、大事になってから始めて知ったという体を取るのでしょう。
生徒側も教師の目のあるところではやらないこと=悪いこと
だと理解していることは多いです。
常時見張るような形になってしまうと、自主性が無くなってしまうことにも繋がりかねませんので、
- 適宜見回りが出来るような状況
- 相談しに行きやすい環境創り
といったことができれば、少しは減るかもしれません。
いじめという言葉を無くす
そもそもの問題として、
いじめという言葉自体がいじめの原因なのでは
と思っています。
序文でも書きましたが、いじめでやっていることは犯罪と同じです。
なのに犯罪扱いではなく、いじめという言葉で曖昧にして誤魔化しているから
罪の意識が芽生えないのだと思います。
いじめ加害者というのは、被害者に対して
自分のほうが立場が上だから、こいつには何をしても良い
と勘違いしている精神異常者です。
これを、いじめから犯罪という言葉に置き換えるだけでも、
ある程度の効果はあると思います。
法治国家に住んでいるまともな人間なら、
犯罪だ
と言われると罪の意識が芽生え躊躇してしまうものです。
終わりに
以上、いじめについて思っていることでした。
世の中がいくら便利になっても、いじめ問題は無くならないと思います。
フランスでは、いじめ加害者は強制的に転校(引っ越し)させられる制度が導入されたと聞いています。
とはいえ、根本的な問題を解決しない限り、何度でも再発してしまうと思います。
中には、死者が出るほどの事件に発展しているケースもあります。
あと、
いじめ被害者にも問題がある
という人もいますが、被害者には責任を求めるのは間違っています。
絶対的な解決策というのがあれば良いのですが、人間関係から生まれるものなので、
不可能だと思っています。
知り合った人全員と仲良くするというのと同じくらい難しいと思っています。
まずは、子供を指導すべき大人が知らん顔するという事を改善させることからだと思います。
子供にとって大人は強者です。
生物の本能的に強者には逆らいません。
なので、大人の目が届かないということを無くしていくことで、
ある程度の抑止効果は見込めると思っています。
加害者にはきちんとした反省を促せる社会にしないと、歪みはどんどん大きくなっていくでしょう(もはや手遅れ感もありますが)
以上、βуё (o’ω’o)ノシ βуё